アトリエを開き続けた
全国の学校が休校になったのは3月に入ってからだが、アトリエ太陽の子は3月3日から分散授業を続けた。通常は30人から40人の子どもたちで2時間の授業を行っていたが、「密」を避けるためにこれを3部に分けた。子どもたちから見ると2時間の授業をいつもの3分の1の人数で受けることになる。先生から見ると3分の1の子どもたちだけど3回も同じ授業をすることとなった。先生方は「本当に大変だった」と、なぜか嬉しそうに話してくれた。
学校が休みになったからか、子どもたちはアトリエに来たがった。親も子どもたちがアトリエに行くことを喜んでくれた。もちろん感染予防は最優先事項だった。授業後のおやつはキャンディーだけにして自分で袋を開けて食べる。アルコール消毒も徹底した。ほとんどの子どもは休まなかったが、電車で通っている子どもは来なかった。電車での感染が怖かったのだと思う。
3月7日から12日まで、灘区民ホールで行う予定だった「子ども達が描いた水墨画展」は開けなかった。ホール自体が閉じられてしまったからだ。代わりに各教室で展覧会を開催して水墨画を見てもらった。
分散授業は4月7日まで続けたが、その後、4月と5月はアトリエを閉めた。
「希望の桜リレー」
アトリエ太陽の子の先生方は、被災地でも、被災地の外でも、笑顔の自画像やひまわりの水墨画、桜の絵を描き続けてきた。東日本大震災からとりくみを始めた「命の一本桜」は力強いとりくみだ。巨大なキャンバスにまず桜の根っこと幹を描く。津波の被災地の子どもたちが描く桜の木は、絶対に流されないようにと太い根っこが地面をがしっとつかんでいる。子どもたちは手のひらにピンクの濃淡の絵の具をつけて、手形で桜の花びらを表現していく。笑顔を振りまきながら大騒ぎで、巨大な桜を描き上げていく。
分散授業は4月7日まで続けたが、4月と5月は教室を休んだ。アトリエの経済的危機も大きかったが、何より、子どもたちのことが心配だった。翌日、4月8日にアトリエから子どもたちにFacebookなどで一斉にメッセージを送った。
コロナに負けない「希望の桜リレー」を始めよう。あなたの描いた桜でみんなを元気にして欲しい。絵でコロナを消滅させたり経済を再生させたりはできないかもしれない。でも、元気が出る。そんな内容だった。
それから毎日、子どもたちから桜の絵が教室に届けられた。仲良し姉妹で描いた「希望の桜」。太い幹、力強い根っこと枝。画面から桜の木がはみ出す勢いだ。桜の周りで遊ぶ子どもたちを描いた絵も多くあった。やっぱり、外で遊びたいんだろうか。桜の木の下で会おうというメッセージなのだろう。
桜の絵は、直接は会えないけれどもつながっているというメッセージとなった。親子で語り合いながら一緒に描いた絵も、届いた。希望の桜の他にも疫病を退散させる妖怪「アマビエ」。母の日には大好きなお母さんの似顔絵も沢山寄せられた。学校にもアトリエにも行けなかったあの時、アトリエからの色々な「絵のお題」は、とても喜ばれた。教室を再開した時には掲示してみんなで鑑賞した。
「希望の桜リレー」は教室の再開まで続けた。
東日本大震災の被災地に行こう
今は時間差授業を続けている。夏はエアコンを効かせながら、窓も開けていた。子どもが「密」にならないように、教室に来る時間を少しずつずらせる工夫をしている。
お弁当の時は向き合わずに横一列に座って、喋らずに食べた。広島と長崎の原爆投下の日には戦争の話をした。子どもたちは戦争の話を聞き、小さな手を合わせた。
アトリエ太陽の子では、「正しく恐れる」大切さを繰り返し教えた。人間には知恵がある。絶対にコロナに負けないと。阪神・淡路大震災でも、東日本大震災でも、他の被災地でも、人々は知恵を寄せ合って立ち上がってきたのだから。今はコロナ禍で大変だけど、いつか、いい経験をしたと言えるようになりたいと思う。
アトリエ太陽の子では、東日本大震災10年の節目に、被災地の若者に会いに行こうと計画している。2年前に、階上中学校の生徒会執行部の4人を神戸の1.17に招いた。「23年経っても熱い思いを持っている神戸の人を尊敬する」という言葉を残して、意欲に燃えて東北に帰って行った。
命の一本桜の授業を実施してきた階上小学校や階上中学校をはじめ多くの学校の子どもたちが、今は高校生や大学生になっている。阪神・淡路大震災を知らない神戸の子どもたちが描いたメッセージを持って、そんな若者たちに会いに行きたい。
11月には階上に行こうと思う。アトリエ太陽の子の全校生でとりくんだ共同制作を持って、東日本大震災の被災地に届けたいと思う。
子ども達が描いた絵には不思議な力がある。コロナにも打ち勝っていくエネルギーになると信じている。
芸術の可能性を信じて、絵画教室の枠を超えて、これからも未来を担う子ども達と共に歩んでいきたい。